片付けない妻です。
ここのところ報道される未就学児への児童虐待のニュース。本当に腹立つ。
- 『生後4ヶ月の娘 重体』
- 『生後1ヶ月の息子 重体』
-
『3歳の娘 衰弱死』
救われなかった子どもたちがいる反面。救われる子どもたちもいる。じゃあ、救われた子どもたちは幸せなの?
虐待から解放されました!めでたしめでたし。
はなかなか巡り会えないケース。『救われた子どもたちは幸せにならなきゃ!!』そう思いますよね?私だってそう思います。でも、本当に幸せになれるの?
- 非行
- 売春
- 虐待の連鎖
- DVの被害者
実際待ち受けているのはそんな現実です。
『死にたい』ではなくて『消えたい』
被虐待児の中には『消えたい』という気持ちを抱く人も。
なんで『死にたい』んじゃないんでしょうね?「どっちも一緒でしょ!!」と思う人が多いのでは?(実は、私もそう思ってましたー。)
『死にたい』は生きたい、生きている、を前提にしている。
『消えたい』は生きたい、生きている、と一度も思ったことがない人が使う。
『死にたい』と思うには、その前提に。本当はこう生きたいという希望や理想がある。あるいは、人生のある時期、楽しく生きていたという経験がある。
(消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ P.23 引用)
私は、妙に納得。
だって数年前まで私も…
- 私は生きる価値のない人間だ
- ここから消えたい
- 他の人より劣っている
とずっと思っていたのですから。
例えばこんなこともあります
我が家では、子ども達は「ママ」と私を呼びます。理由は…”お母さん”と呼ばないでと私が言うから。”お母さん”と呼ばれる事が生理的に受け入れられないんですよね。
子どもからしたらほんと迷惑な話。苦笑
もちろん学校や先生などには「うちの母が…」「お母さんが…」と使うように言っています。でも、家の中では「ママ」。
ちなみに私が自分の母を呼ぶときは、名前です。「なんで嫌なんだろう?」と考えてみた結果…私にとって”お母さん”は嫌悪感の塊であることに気づきました。
“お母さん”は存在しません。
“私を産んだ人”はいますけどね。
(私を産んだ人についてはこちら被害者ヅラの母親も虐待の加害者。虐待を学んで知った事実。2015年6月7日)
『ママ』『お母さん』は生物学的に自分を産んだ人という意味だけではなく、人間的、社会的な意味を背負っているのだ。
(消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ P.213 引用)
”母親”に抱くイメージは?
- 優しい
- 無条件で愛してくれる
- 守ってくれる
- 絶対的な味方
イメージと自分の母親(または母親である自分)がかけ離れている。
それでもあなたは「お母さん」「ママ」と呼べ(または呼ばれる)ますか?
常に何かと戦っている
私は主人と結婚して今の関係を築くようになり、やっと手にした平和。それまで長い間ずっと何かと戦ってました。
- 自分の為ではなくいつも人の顔色ばかり気にする
- 人に嫌われないように振る舞う
- 母や兄弟に対しても一緒(なので反抗期なし!苦笑)
- 毎日が消耗戦
- 『消えたいなー』と思う日々
- 数々の自傷行為
もう誰も自分に害を加えないことは十二分に理解していたんですよ。それでもふとした時に過去にとらわれている自分に気づいてしまうんですよねー。
平和を手に入れた今でも…夢に見たり、いやーな気持ちになります。
被虐待児のその後…
被虐待児は救われた後もトラウマに悩む日々を送っています。
- 無気力
- 基本的な生活を知らない
- 困ったときに帰る場所がない
- 自分が加害者にまわる
- DVなどの被害者になる
虐待から救われ、大人になった。虐待の傷跡が大人になっても治らないことがあるんですね。
まとめ
減らない児童虐待。犠牲になる子ども達。連日報道されるニュース。
そこから離れれば虐待という恐怖からは一旦解放。でも、救われたから終わりではないのですよね。
そこからは自分との戦い。
大人になってもまだ当時から解放されない人もいるんですよ。
虐待を受けた子ども達は、臨床心理士や施設の職員の方々から援助を受けながら、自分の身に起きた事を一つ一つ整理したりします。
きちんとケアを受けておくことは子ども達の成長にとって欠かせない。私も当時ケアを受けておけば、少しは楽しく過ごせたのかなー?と思いますけどねー。
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